西安観光名所 華清池  [西安観光スポット]

西安観光名所のひとつである「華清池」は、西安の北東約30kmの、標高1256mの驪山(りざん)の麓に抱かれるようにあります。この場所は、古く3千年前の西周時代から驪山を源泉とする温泉地でした。

秦の始皇帝を始め歴代皇帝の保養地として利用されてきましたが、やっぱりここを語るとき忘れてならないのは唐代の玄宗皇帝と楊貴妃にまつわるお話でしょう。

玄宗皇帝は747年、この温泉地に宮殿式建築の豪奢な湯殿を建て「華清宮」と名付けました。そしてここを舞台に絶世の美女といわれる楊貴妃との享楽生活にふけったのです。

楊貴妃は16歳の時、美人(官名)に選ばれて宮殿に入り、玄宗の子(寿王)の妃となりましたが、740年10月、玄宗皇帝が華清宮への行幸中に召し出されました。

美人で聡明な楊貴妃は玄宗皇帝の寵愛を一身に集め、745年に皇后に次ぐ高位「貴妃」となったのです。(本名は「楊玉環」といいます)以来、玄宗皇帝は毎年秋から春にかけ、ここ華清宮で楊貴妃とともに過ごし、享楽の毎日を送りました。

華清宮には、玄宗皇帝専用の湯殿「蓮花湯」と楊貴妃専用の湯殿「海棠湯」が造られました。蓮花湯は大理石で造られ白い玉石で魚や龍、蓮の花などの彫刻で飾られていたといわれます。特に蓮の花は、まるでお湯の中に芙蓉の花が咲いているように見えるくらい見事なものだった伝えられています。

華清池への入り口を抜けすぐ左手にある建物は「飛霜殿」といいます。ここは玄宗皇帝と楊貴妃が泊まった建物で、源泉を引き込んであったため(今様に言うなら「床暖房」ってとこでしょうか?)、冬でも暖かく屋根には霜も付かないということから「飛霜殿」と呼ばれます。

玄宗皇帝と楊貴妃の華清宮における愛欲の日々は、唐代の詩人白楽天によって長編叙事詩「長恨歌」に詠まれています。

実はここ華清宮は、現代中国史においても重要な政変の舞台となっています。「楊虎城」率いる西北軍と「張学良」率いる東北軍による共産党「討伐」が進まないことに業を煮やした蒋介石は、1936年12月、この二人の将軍に檄を飛ばすため西安に来ました。その時蒋介石はここ華清宮に泊まりこんでいました。しかし、張学良の部下の多くは共産軍との内戦停止と一致抗日を支持していました。そして抗日運動を抑圧し対共作戦にだけ夢中になっていた蒋介石に対し、ついに12月12日朝5時反乱は起きました。(いわゆる「西安事件」です。)

突然の銃声で目を覚ました蒋介石は着の身着のまま逃走しましたが、山腹の岩陰に隠れているところを張学良の護衛兵に捕らえ、西安市の西京招待所に幽閉されました。

この情報は張学良によって延安にいる毛沢東に伝えられると、毛沢東は周恩来を西安に派遣しました。周恩来は蒋介石と交渉を重ねた結果「抗日民族統一戦線」結成となって、国共合作が実現しました。

参考:中国旅行専門サイト―西部旅情
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