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敦煌観光スポット 敦煌古城 [中国旅行]

 井上靖原作の映画「敦煌」の撮影のため、1987年に市の西郊に作られました。敦煌古城は規模がかなり大きく、城郭とともに古代の町並みも再現されています。今も時々テレビや映画の撮影に使われ、中に入ると馬が嘶き、店先に¥酒旗が揺れて、昔の西域に迷い込んだ気分になります。
 鳴沙山を遠望し、反対側は一面の砂漠なので、雄大な景色を楽しめます。

敦煌観光スポット 鳴沙山 月牙泉 [中国旅行]

 中国では砂は「沙」と書きます。沙の鳴る山と書くこの鳴沙山はその名を「沙嶺晴鳴」の四字からとったと言われます。風に吹かれる砂の音を聞いた古代の人の雅を偲ぶことが出来ます。
 ここは夕暮れ時が最も美しいです。東西約40キロ、南北20キロに広がる砂漠の丘陵は風がすぐに人の足跡を消し去るため、いつも人跡未踏の神秘な姿で人を迎え入れています。
 夕暮れの中に身を置くと空に星が一つ二つと輝き始め、やがて月の砂漠に変わります。日がとっぷり暮れた後には懐中電灯が役に立ちます。先方でふってくれる灯と呼応しながら砂を踏みしめて歩くとき、シルクロードを超えた旅人の気持ちが少し身近になったように感じるのです。
 中国では三日月のことを「月牙」と言います。この湖の形は三日月の形をしているので、「月牙泉」と呼ばれています。鳴砂山北麓の泉が水源のこの湖は透明な水をたたえて枯れることがありません。この泉には流砂は流れ込まず、砂は周囲にのみ積もると伝えられています。夕暮れに砂山がシルエットとなること、この泉は月光を浴びて神秘的な美しさを漂わします。

天水観光スポット 麦積山石窟 [中国旅行]

 麦積山は甘粛省東部、蘭州と西安のほぼ中間に位置しています。もしその間を列車で移動する時は「天水」で下車し、麦積山石窟見学することができます。
 天水駅の東の東方約50キロ、車で約1時間ほど走ると、平地にこんもりとした山が見えてきます。形が麦打ち場に積み上げられた藁塚に似ていたことから「麦積山」と呼ばれています。高さは150メートルあたりで、近づくにつれ、絶壁にたくさんの仏像が見えます。
 5世紀前半から造られ始め、最盛期には数多くの石窟が掘られました。現存するものは194窟です。その中で最も古いものは第74、78窟の如来と両脇恃仏で、その優美な顔立ちが有名です。
 西魏の文帝の時から隋、唐と時代を追って盛んになったが、唐の開元22年の地震で被害をうけ、東窟と西窟に分けられました。塑像はいずれも表情が豊かで、高さ約16メートルの阿弥陀仏から10センチぐらいの小さいものまで様々な仏が並びます。
 山頂の舎利塔は清代の再建です。下層から上層に向けて幾重にも道がめぐり、近づいて仰ぎ見るとき、麦積山が全体が仏像の宝庫という感じがします。

西安観光スポット 香積寺 [西安観光スポット]

 香積寺は唐の中宗の時代に創築された浄土宗の寺で、阿弥陀仏と善導大師(613-681)が祀られています。善導大師の教えは日本に伝えられ、広く浄土宗として、広まりました。善導大師は日本の浄土宗徒にとっては5祖の1人、観光客もおのずと日本人が多いです。
 迦蘭などは安禄山の乱で焼け、清代まで修理されないままでしたが、近年修復がなされています。唐代の建築と伝えられている善導舎利古塔は高さ33m、11層です。かつては13層ありましたが、上部が崩れ落ちています。1階には善導大師と法然上人との対面の像があります。盛唐の詩人王維の五言律詩「過香積寺」に描かれた雰囲気はそのままに、見渡せば中国古典文学に登場する山、終南山を遠望することが出来ます。

西安~~~

西安市の概況
1、自然環境
西安は関中平原の中部に位置し、北は渭水、南は秦嶺山脈を望み、東にはサン河、ハ河、西にはホウ河とロウ河が流れています。平均海抜は395メートルで、南東に高く、北西に低い地勢となっています。年間平均降水量は604ミリでその半分は7.8月に二ヶ月間に集中しています。一番寒い月は1月で、一番暑いのは7月です。
 関中平野は山に囲まれ、終南山はまるで天然の壁のように平野の南にそびえています。西安の周りには数多くの河が流れていますが、もっとも有名なのはケイ河、イ河、サン河、ハ河、ホウ河、コウ河、ロウ河、ケツ河など八つの河です。そこで、古くから、八水長安を巡るという言葉もあります。渭水は黄河の最大の支流として、関中平野を流れ、潼関というところで黄河に合流します。その八つの河の中で、もっとも重要なのは渭水で、西安に古代文明をもたらしたのもこの河です。自然条件に恵まれている関中平野は昔から、中国の主な農業区としてよく知られています。
2、13の王朝の都
 西安はかつて長安と呼ばれており、この名は「長久平安」ということを意味しています。北京、洛陽、南京、開封、杭州とともに中国の六大古都の一つです。長安がはじめて都になりましたのは紀元前12世紀の西周時代です。続きまして、秦、前漢、後漢、西晋、隋、唐など、13の王朝が相次いで西安を都としました。そして、周の幽王、秦の始皇帝、漢の高祖、漢の武帝、隋の煬帝、唐の太宗、則天武后、唐の玄宗など、歴史上70人の帝王がここで宮廷生活を送りました。こうして、西安は都として栄えたのは中国ではもちろんのこと、世界においてもきわめて稀なことです。
 古い歴史は西安にいろいろな文化遺跡を残しています。今、西安の付近には重要文化財が239個所あり、その中20個所は特に重要な国家指定の文物です。西安を中心とした関中地方は巨大な自然博物館のように、たくさんの文物があります。
 もっとも有名なのは、最初に中国を統一した秦の始皇帝の陵墓及び「世界の第八番目の奇跡」と称されている秦の始皇帝の兵馬俑、唐太宗李世民の昭陵、中国唯一の女性皇帝である則天武后とその夫の高宗李治の合葬墓――乾陵、また「西遊記」でおなじみの玄奘三蔵法師が仏典を翻訳したところである大慈恩寺とその中の大雁塔、6000年前の新石器時代の遺跡である半坡博物館、西域の名僧クラマジューが仏典の翻訳の没頭した草堂寺、中国浄土宗を大成させた善導法師を記念するために706年に立てられた香積寺、「書道の故郷」や「石碑の宝庫」とたたえられている碑林博物館、唐の時代に建立されたイスラム教のモスクである清真大寺、唐の玄宗と美人楊貴妃のロマンスの場で、また有名な「西安事変」の舞台としても登場した華清池、明代に作られた鐘楼、鼓楼及び中国でも完璧な西安城壁など数え上げられば、きりがありません。西安は悠久の中国古都にふさわしい姿で、国内外の観光客を迎えています。西安はすでに世界でも有名な人気のある観光都市になりました。ここを中心として、東西南北のそれぞれの特色を持つ四つの観光コースが形成されています。すなわち、東コースは黄河の素晴らしいたび、西コースはシルクロードの旅、来たコースは黄土風情の旅、南コースは三国誌の跡を探訪する旅です。
3、シルクロードの起点として栄えた唐の長安城
唐の時代の長安は世界において、もっとも繁栄で、最も大きく、そして各民族が集中した国際大都市でした。人口も100万人を超えていたと言われています。ローマへ続くシルクロードの出発点でもあり、東西文化の集約地として、花開きました。特に唐代の都には世界の様々の人々が集まっておりました。その中には日本人の姿も少なくありませんでした。
長安城の規模は考古学の調査の結果、東西9721メートル、南北8651.7メートルで、東西に長い長方形でした。面積は今の西安城の約9倍に当たります。長安城は北には太極宮があり、南には皇城があります。その太極宮と皇城の間には、幅約220メートルの街道があり、皇城、宮城以外の長安城内には街路によって整然と縦横にしきられ、南北に11条、東西に14条がありました。南北路の中心は朱雀大街で、幅やく150メートル、街路によって仕切られた居住区間を「坊」または「里」と呼んでいました。城内に入るにはいくつかの門がありました。東からの旅行者は春明門から、西からの旅行社は開遠門から入りました。日本の平城京、平安京も長安を真似て作られたものです。
 長安城内には145の仏教寺院、道観がありました。その中で、もっとも有名なのは大興善寺、薦福寺、青龍寺、永寿寺などでした。日本からの留学生空海、円仁、円珍らは、いずれ青龍寺に住んでいました。吉備真備はその学才を賞されていたし、阿倍仲麻呂は科挙に合格して、大官になりました。日本の留学生のほか、朝鮮、西域さらに西アジアからの渡来人も数多くいました。たくさんの留学生と商人の渡来に伴い、いろいろな文化が中国に伝えられてきましたが、その代わりに、中国の文化、様々な先進技術が世界各地に伝えられていったのです。当時の長安城には二つの市場があって、それぞれ「東市」と「西市」と呼んでいました。特に西市は外国からの商人がたくさん集まったので、東市より繁華な市場と言われていました。
 シルクロードは長安を起点として、西のローマへ続く巨大な道で、東西13000キロ、南北1000キロに及びます。東に中国、西にローマ帝国を控え、その道筋にはトルコ、ベルシア、インドなどの大国がありました。それらの国々に住む数多くの民族はシルクロードを生活の場としていました。旅行と貿易はそれらの民族の生活の手段でした。中国の絹、茶はヨーロッパ、中央アジア、西アジアへ輸出され、また、西域、インド、ベルシアからの葡萄、胡瓜、ゴマ、胡桃、金銀器、銀貨などが中国へ伝来されました。中国古代の火薬、製紙、印刷術もこの道を通って、ヨーロッパに伝わったのです。特に世界宗教の一つ仏教がインドからシルクロードを経て、中国へ伝えられたことは中国、朝鮮、日本の文化にはかりしれなく、しかも深い影響を与えました。張弿、玄奘三蔵法師、クラマジューなどシルクロードと深い関係のある人々は中国と政府の文化交流に大きな役割を果たしました。シルクロードは当時は東方諸国と欧米諸国の貿易往来の通路であったばかりであったのです。交通が発達した現在、シルクロードは重要の要地としての地位をすでに失いましたが、シルクロードが世界文化の交流を大きく動かしてきたことは人々の心に永遠に残っていくことでしょう。シルクロードは世界文化の発展史に重要な1ページを書き加えたのです。
4、今日の西安
 現在の西安は郊外地区を含めて人口約680万、中国西北地方の第一の大都会です。西安市内の町は東西南北に走る街路によって、基盤の目のようにしきられています。市のほぼ中央に当たる鐘楼から、東、西、南、北など四つの大通りが四方にのびていて、大きな交通網が形成されています。現在の西安は各分野において著しい発展を遂げました。また、西安の都市建設は中国でもきわめて特色のあるものとして注目されています。西の郊外は電気工業地帯で、中国最大の電気製造企業¬――西安電子機械製造公司がここにあります。東の郊外は紡織工業がここに整然とならんでいます。南の郊外は文教区としてよく知られており、約30数校の大学がここに集中しています。ここは中国の高等教育の一つの中心となっています。西安の商業街はほとんど市内に分布しており、特に、東、南、西、北四つの大通りと西安駅の近くにある解放路では、各種のデパート、レスロラン、ホテル、本屋などがにぎやかに軒を並べています。
 西安市には外国の観光客の利用されるホテルが40あまりあり、客室が9000あまりあります。サービスは行き届き、ホテルには、プールや娯楽室などの施設が設けられています。「唐楽宮」は「中国式のナイトクラブ」と言われて、夜には、中国国内、外の観光客は中国料理を味わいながら、中国の宮廷歌舞を楽しんでいます。他には、長安グランドキャッスルホテルロイヤルホテル、唐華賓館、ハイヤットホテルシャングリーラーホテルシェラトンホテル西安賓館なども有名です。特にその中の長安グランドキャッスルホテル、唐華賓館とロイヤルホテルは中日合弁のホテルです。
 今日、西安は中国の対外開放都市のひとつとして、主要な観光地であるだけでなく、工業都市としても発展を遂げた都なのです。

西安観光スポット 城壁 [西安観光スポット]

西安の城壁は中国に現存する古代の城壁の中では唯一の完全なもので、唐代の城壁を明代に作り直したものです。
 唐代は中国封建社会で一番栄えた王朝でした。しかし、唐末の農民一揆でたくさんの宮殿などが焼かれてしまいました。それに農民一揆の裏きりもの朱温は長安城内の人々を洛陽に行かせました。それらの事件によって、長安は都の地位を失ってしまいました。長安城は大きい割りに人口がそれほどありませんでした。それで長安の管理の効率化のために長安城を縮小しようとしました。
 唐末の朝建という人は唐の皇城をモデルにして、新しい町を建てました。その町は新城と言われました。(唐の長安城は皇帝の住む宮城と皇帝が政事を処理する皇城と庶民が住む城郭外との三つの部分からなっていた。)
明の時代になると、明の太祖朱元璋が「城壁は高く作ったほうがいい」という提言に基づき、全国各地に城壁が作られました。今の西安の城壁もその時代に改修されたもので、明の洪武3年から同11年(1370-1378)までに行われましたが、初唐の規模のおよそ9分の1に縮小されました。
 現在の城壁は高さ12メートル、南側3.4キロ、北側3.3キロ、東側と西側それぞれ2.6キロ、周囲13.9キロの長方形です。城壁の上の幅は12メートルから14メートルで、土台の幅は15メートルから18メートルです。城壁の上に角楼や敵台というのがあります。敵台というのは、敵を射るために作ったので、元々は98ありました。城門は東門を長楽門、西門を安定門、南門を永寧門、北門を安遠門といいます。西門はシルクロードの出発点で、昔、ここで西へ旅立つ人の送別会を行ったという場所です。昔、こういう城門や敵台や外堀などによって、一つの系統的な軍事防衛体制ができていました。
 なお、昔の西門跡には、「安西まで9900里」といわれたシルクロード出発点記念像があります。

西安観光スポット 永泰公主の墓 [西安観光スポット]

 永泰公主は唐中宗の七番の娘で、高宗と則天武后の孫娘です。彼女は則天武后の実家の人と結婚しましたが、701年に17歳の若さで死に、洛陽に埋葬されました。現在の所に改葬されたのは中宗が即位してからのことです。彼女は難産で死んでしまったといわれていますが、実は則天武后を怒らせ,死を賜り、中宗によって永泰公主という名を追贈されて、乾陵に陪葬されたのです。
 木の墓は乾陵の東南に位置していて、1960年8月から1962年4月まで発掘されました。これは解放後発掘されたもっとも大きな墓です。墓は全部土を盛り上げて作られ、バケットの形をしている墓道はスロープ状で、高さ約2メートル、幅3.9メートルで、玄室までの長さが87.5メートルです。そして玄室の深さは地下16.7メートルもあります。
 入り口に入ってから両側の壁に壁画が描かれています。東側は青龍で、西側は白虎。そして、将軍が鎧をつけ、宝剣をみにつける兵士を率いている画もあります。これらの兵士は議仗隊です。もう少し奥へ進むと大きな墓誌銘が見えます。この墓誌銘に「大唐故永泰公主」と篆書で刻まれており、側面にはつる草紋様や十二支の動物などが見事に描かれてあります。墓道の左右対称の位置にはそれぞれ四個、あわせて八個の小さな龕が作られています。また、唐三彩の家屋、井戸、燭台、壷などのほかに婦人俑や騎馬俑または牛、馬、豚、羊などの陶俑が置かれています。さらに進むと、発掘したときに発見された盗掘の穴があります。そのときここで人の死体と鉄の斧が発見されました。これは盗掘者の間に、分け前をめぐる争いが起こり、仲間割れで殺されたものの死体だと思われます。この墓は明らかに盗掘されていましたが、しかしそれでもすばらしい唐三彩、陶俑など1350点も出土されたのです。
 天庭の部分が終わるとドーム状の墓室になります。墓室は前墓室、後墓室の二つの部分に分かれています。前墓室は応接間を象徴します。両側の壁は壁画だらけです。「仕女図」が日本ではよく知られています。よく見ると、高松塚古墳の壁画と良く似ているからです。しかしその大きさや力強い筆致などによって、その違いが認められます。壁に描かれているこの八人の宮女は唐代の女性の典型とも見られるもので、顎が張り、眉が太く、いかにも意志が強そうな顔つきです。ある宮女はお皿を手に載せ、あるものは燭台を手に取り、あるものは扇、あるものは如意を持っています。人それぞれの容姿も違います。ひそひそとささやいていて、まるでそれにうなずいているようなものもあり、またあたかも周りを見回しているような者もいます。彼女らはまるで主人の用事のために、道を急いでいるようです。この「仕女図」について、学者たちは侍女の服装から二つの事実を指摘しております。一つは侍女のはいている靴の大きさから唐代の婦人が纏足ではなく、今の女性とまったく同じということで、もう一つは侍女の服装が極めて自由で、胸元がゆったりして、おおらかな感じがあるということです。唐の時代の女性は儒教の三綱五常の礼儀から受ける束縛が前よりはるかに少なくなったのです。これも唐王朝が李耳老子の道教を提唱し、儒家学説を抑えたこととかかわりがあるでしょう。唐の時代の女性は大変優遇されていて、女性万能の時代だったとも言えるでしょう。
前墓室から後墓室へ、その間に石門があったが、盗掘者によって壊されてしまいました。この後は後墓室です。中には石椁があります。横約4メートルで、高さ約2.5メートルです。石椁には門があり、その上にドアノッカーがついて、その脇に二人の宮女像が彫られています。石椁のなかには木棺があり、泥水に浸かっていて、長い年月を経たため、もはや下ってしてしまいました。後墓室の天井には天象図があります。東の方は太陽を象徴する三足金鳥で、西の方はつきを象徴する玉兎で、その間は天の川で、星が正しい位置に配置されています。これによって、当時の天文学の発達ぶりがよくわかるでしょう。
 唐代の陵墓の特徴はまったく彼らのすんでいた宮殿を真似て作られ、彼らの生前生活を再現しようという点にあります。これまで発掘された章懐太子の墓懿徳太子の墓もみな永泰公主の墓と大体同じです。墓道や玄室にはいろいろな者を飾り、色彩やかな壁画は写実的に描かれていて、柩はいずれも家屋の形をしています。それらの文物は当時の社会生活や宮廷建築や女性の服飾、髪の形などを研究する貴重な資料となっています。
 永泰公主の墓の前には乾陵博物館があります。いくつかの陪塚から発掘された出土品が展示されています。第一室は乾陵と永泰公主の墓の説明で、乾陵の復原鳥瞰図もあります。第二室は永泰公主の墓と同じに、今保存、公開されている章懐太子と懿徳太子の部屋です。唐三彩の出土品がたくさんあります。そして唐代の優れた絵画、芸術を偲ばせる壁画も目を引きます。

西安観光スポット 水陸庵 [西安観光スポット]

 水陸庵は藍田県の東10キロにある普化鎮 王順山の麓にあり、精致な壁の塑像で名が世に知られています。三方が水に囲まれ、小島のようです。周りに川が流れていることから、水陸庵と名づけたのです。水陸庵が建立された年代について、いろいろな説があります。藍田県誌と碑文の記録によれば、六朝時代に建てられたことになります。明清時代に何回の修復を施しました。地元の民間伝説によると唐代に尉遅恭の監督のもとで建立されたそうです。水陸庵の建築様式は一般の仏教のお寺と似ており、正面に山門が五つ、南北両側にそれぞれ部屋が13、中心部に中殿が三つ、西側に大殿が五つあり、四合院のような建築です。現在の寺は奥ゆかしい雰囲気を醸し出しています。
 一番人目を引くのが仏殿にある色彩の壁の塑像です。これは唐代の有名な彫刻家楊恵之の手によるものといわれています。あわせて3700体あります。壁の塑像は南壁と北壁をはじめとして、四つの部分に別かれています。この両側の塑像は連続した形を取って、すべて釈迦牟尼伝説の物語を描いています。塑像には庭園、滝、山水、橋、楼閣、宮殿、塔などの建築物やいろいろの菩薩、飛天などの人物があり、龍、鳳凰、獅子、麒麟、象、牛などの鳥獣もあります。整った配置と致密な構成で物語の流れが良くわかり、ひとつひとつ巧みに作られています。象にまたがり悠々と進んでいるもの、獅子や麒麟に乗って疾走しているもの、船に乗って湖を遊覧しているもの、河を歩いて渡っているもの、掛け軸を観賞しているもの、龍の背で飄然と空を飛んでいるもの、仏堂で説法しているものなど、どれでも、生き生きとした自然な美しい姿です。そして、人物の表情にはさまざまな人の異なった性格と心理状態が表現されています。これらの精緻な壁の塑像は中国の古代彫刻家の豊富な想像力と優れた彫刻技術を十分に表しています。水陸庵は陝西地方のお寺ではもっとも多く、もっとも完全な壁の塑像を保存するところです。
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西安観光スポット 乾陵 [西安観光スポット]

西安観光名所である乾陵は西安の西北約80km、陜西省乾県城北6kmの梁山にある。数かずの石像に守られ、唐3代高宗、李治(在位649~ 683)と女帝武則天(在位690~ 705)の合葬墓で、「唐十八陵」のうちで最も保存状態がよい。中国の歴史上で唯一、二人の皇帝が一緒に葬られている珍しい墓でもある。海抜1047mに位置して、広大な規模で、気迫がみなぎる。最も代表的な唐朝の陵墓である。   

合葬陵墓は梁山をそのまま陵墓をしたもので、梁山はなだらかな山で峰が三つあり、玄室のある峰が海抜1047メートで、その南のやや低いの二つの峰はいずれも小さいな峰火台があり、まるで女性の乳首のように見えるので「乳峰山」と呼ばれる。
            
参道には馬、高宗の葬儀に参列した外国の使節や、武官、文官、献上された動物をかたどった石像が120体ほど並んでいる。最も有名なのは唐高宗の功績を称えた石碑「七節碑」とその東側にある則天武后の石碑「無字碑」である。

乾陵の前方には、合計537段の石段と18の平台があり、81.68mの高低差がある。石段の先には、唐高宗陵墓碑まで続く参道がある。これが「司馬道」だ。現在道の両脇には、対になった石柱、ペガサス、ダチョウ、5対の石馬、10対の石像、2本の石碑がある。東には無字碑、西には述聖記碑があり、ほかに王賓像61体、石獅子1対もある。114点ある石刻の多くは巨石を彫りこんで造っている。陵の東南には17の陪葬墓がある。唐高宗陵墓碑は、高さ2m。もともとあった碑は破損しており、現在の碑は清乾隆年間に建てられたものだ。この碑の右前方には、郭沫若によって「唐高宗李治与則天皇后之墓」の12文字が書かれた碑がある。

乾陵の合葬墓は盗掘されたことがない。1966年から1971年、考古学者によって数度にわたって調査が行なわれ、墓の構造の堅牢さがわかった。墓道から墓室までは631m、幅3.9m、39層になっていて、すべて石版で仕切られている。各階の石版は鉄栓でとめ、そこへ鉄を流し込んで固定されている。こうした方法は文献の内容と一致しており、この墓が盗掘されにくいことが実証された。唐高宗と則天武後の地下宮殿には珍品が多いがまだ未発掘である。則天武后と唐高宗皇帝は唐代全盛期時代の人であるから、乾陵内部の副葬品は相当なものであるに違いない。その出土が大いに期待されている。

 乾陵周辺には、高官やその近親者永泰公主、章懐太子、懿徳太子など皇族の陪塚が17個あり、なかでも則天武后の怒りに触れ、17歳の若さで没した悲運の少女、4代中宗の第七女、永泰公主の墓には、色鮮やかな女官の壁画が描かれている。永泰公主の壁画は、奈良の松塚壁画のモデルといわれている。 陵墓の南東には乾陵博物館は永泰公主墓の側にあり、乾陵を中心とする墓群で発掘された文化財が多数展示されている。特に永泰公主の墓に描かれた壁画は当時の工芸技術の高さを物語る。

参考:中国観光専門サイト―西部旅情

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