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西安観光スポット 香積寺 [西安観光スポット]

 香積寺は唐の中宗の時代に創築された浄土宗の寺で、阿弥陀仏と善導大師(613-681)が祀られています。善導大師の教えは日本に伝えられ、広く浄土宗として、広まりました。善導大師は日本の浄土宗徒にとっては5祖の1人、観光客もおのずと日本人が多いです。
 迦蘭などは安禄山の乱で焼け、清代まで修理されないままでしたが、近年修復がなされています。唐代の建築と伝えられている善導舎利古塔は高さ33m、11層です。かつては13層ありましたが、上部が崩れ落ちています。1階には善導大師と法然上人との対面の像があります。盛唐の詩人王維の五言律詩「過香積寺」に描かれた雰囲気はそのままに、見渡せば中国古典文学に登場する山、終南山を遠望することが出来ます。

西安観光スポット 城壁 [西安観光スポット]

西安の城壁は中国に現存する古代の城壁の中では唯一の完全なもので、唐代の城壁を明代に作り直したものです。
 唐代は中国封建社会で一番栄えた王朝でした。しかし、唐末の農民一揆でたくさんの宮殿などが焼かれてしまいました。それに農民一揆の裏きりもの朱温は長安城内の人々を洛陽に行かせました。それらの事件によって、長安は都の地位を失ってしまいました。長安城は大きい割りに人口がそれほどありませんでした。それで長安の管理の効率化のために長安城を縮小しようとしました。
 唐末の朝建という人は唐の皇城をモデルにして、新しい町を建てました。その町は新城と言われました。(唐の長安城は皇帝の住む宮城と皇帝が政事を処理する皇城と庶民が住む城郭外との三つの部分からなっていた。)
明の時代になると、明の太祖朱元璋が「城壁は高く作ったほうがいい」という提言に基づき、全国各地に城壁が作られました。今の西安の城壁もその時代に改修されたもので、明の洪武3年から同11年(1370-1378)までに行われましたが、初唐の規模のおよそ9分の1に縮小されました。
 現在の城壁は高さ12メートル、南側3.4キロ、北側3.3キロ、東側と西側それぞれ2.6キロ、周囲13.9キロの長方形です。城壁の上の幅は12メートルから14メートルで、土台の幅は15メートルから18メートルです。城壁の上に角楼や敵台というのがあります。敵台というのは、敵を射るために作ったので、元々は98ありました。城門は東門を長楽門、西門を安定門、南門を永寧門、北門を安遠門といいます。西門はシルクロードの出発点で、昔、ここで西へ旅立つ人の送別会を行ったという場所です。昔、こういう城門や敵台や外堀などによって、一つの系統的な軍事防衛体制ができていました。
 なお、昔の西門跡には、「安西まで9900里」といわれたシルクロード出発点記念像があります。

西安観光スポット 永泰公主の墓 [西安観光スポット]

 永泰公主は唐中宗の七番の娘で、高宗と則天武后の孫娘です。彼女は則天武后の実家の人と結婚しましたが、701年に17歳の若さで死に、洛陽に埋葬されました。現在の所に改葬されたのは中宗が即位してからのことです。彼女は難産で死んでしまったといわれていますが、実は則天武后を怒らせ,死を賜り、中宗によって永泰公主という名を追贈されて、乾陵に陪葬されたのです。
 木の墓は乾陵の東南に位置していて、1960年8月から1962年4月まで発掘されました。これは解放後発掘されたもっとも大きな墓です。墓は全部土を盛り上げて作られ、バケットの形をしている墓道はスロープ状で、高さ約2メートル、幅3.9メートルで、玄室までの長さが87.5メートルです。そして玄室の深さは地下16.7メートルもあります。
 入り口に入ってから両側の壁に壁画が描かれています。東側は青龍で、西側は白虎。そして、将軍が鎧をつけ、宝剣をみにつける兵士を率いている画もあります。これらの兵士は議仗隊です。もう少し奥へ進むと大きな墓誌銘が見えます。この墓誌銘に「大唐故永泰公主」と篆書で刻まれており、側面にはつる草紋様や十二支の動物などが見事に描かれてあります。墓道の左右対称の位置にはそれぞれ四個、あわせて八個の小さな龕が作られています。また、唐三彩の家屋、井戸、燭台、壷などのほかに婦人俑や騎馬俑または牛、馬、豚、羊などの陶俑が置かれています。さらに進むと、発掘したときに発見された盗掘の穴があります。そのときここで人の死体と鉄の斧が発見されました。これは盗掘者の間に、分け前をめぐる争いが起こり、仲間割れで殺されたものの死体だと思われます。この墓は明らかに盗掘されていましたが、しかしそれでもすばらしい唐三彩、陶俑など1350点も出土されたのです。
 天庭の部分が終わるとドーム状の墓室になります。墓室は前墓室、後墓室の二つの部分に分かれています。前墓室は応接間を象徴します。両側の壁は壁画だらけです。「仕女図」が日本ではよく知られています。よく見ると、高松塚古墳の壁画と良く似ているからです。しかしその大きさや力強い筆致などによって、その違いが認められます。壁に描かれているこの八人の宮女は唐代の女性の典型とも見られるもので、顎が張り、眉が太く、いかにも意志が強そうな顔つきです。ある宮女はお皿を手に載せ、あるものは燭台を手に取り、あるものは扇、あるものは如意を持っています。人それぞれの容姿も違います。ひそひそとささやいていて、まるでそれにうなずいているようなものもあり、またあたかも周りを見回しているような者もいます。彼女らはまるで主人の用事のために、道を急いでいるようです。この「仕女図」について、学者たちは侍女の服装から二つの事実を指摘しております。一つは侍女のはいている靴の大きさから唐代の婦人が纏足ではなく、今の女性とまったく同じということで、もう一つは侍女の服装が極めて自由で、胸元がゆったりして、おおらかな感じがあるということです。唐の時代の女性は儒教の三綱五常の礼儀から受ける束縛が前よりはるかに少なくなったのです。これも唐王朝が李耳老子の道教を提唱し、儒家学説を抑えたこととかかわりがあるでしょう。唐の時代の女性は大変優遇されていて、女性万能の時代だったとも言えるでしょう。
前墓室から後墓室へ、その間に石門があったが、盗掘者によって壊されてしまいました。この後は後墓室です。中には石椁があります。横約4メートルで、高さ約2.5メートルです。石椁には門があり、その上にドアノッカーがついて、その脇に二人の宮女像が彫られています。石椁のなかには木棺があり、泥水に浸かっていて、長い年月を経たため、もはや下ってしてしまいました。後墓室の天井には天象図があります。東の方は太陽を象徴する三足金鳥で、西の方はつきを象徴する玉兎で、その間は天の川で、星が正しい位置に配置されています。これによって、当時の天文学の発達ぶりがよくわかるでしょう。
 唐代の陵墓の特徴はまったく彼らのすんでいた宮殿を真似て作られ、彼らの生前生活を再現しようという点にあります。これまで発掘された章懐太子の墓懿徳太子の墓もみな永泰公主の墓と大体同じです。墓道や玄室にはいろいろな者を飾り、色彩やかな壁画は写実的に描かれていて、柩はいずれも家屋の形をしています。それらの文物は当時の社会生活や宮廷建築や女性の服飾、髪の形などを研究する貴重な資料となっています。
 永泰公主の墓の前には乾陵博物館があります。いくつかの陪塚から発掘された出土品が展示されています。第一室は乾陵と永泰公主の墓の説明で、乾陵の復原鳥瞰図もあります。第二室は永泰公主の墓と同じに、今保存、公開されている章懐太子と懿徳太子の部屋です。唐三彩の出土品がたくさんあります。そして唐代の優れた絵画、芸術を偲ばせる壁画も目を引きます。

西安観光スポット 水陸庵 [西安観光スポット]

 水陸庵は藍田県の東10キロにある普化鎮 王順山の麓にあり、精致な壁の塑像で名が世に知られています。三方が水に囲まれ、小島のようです。周りに川が流れていることから、水陸庵と名づけたのです。水陸庵が建立された年代について、いろいろな説があります。藍田県誌と碑文の記録によれば、六朝時代に建てられたことになります。明清時代に何回の修復を施しました。地元の民間伝説によると唐代に尉遅恭の監督のもとで建立されたそうです。水陸庵の建築様式は一般の仏教のお寺と似ており、正面に山門が五つ、南北両側にそれぞれ部屋が13、中心部に中殿が三つ、西側に大殿が五つあり、四合院のような建築です。現在の寺は奥ゆかしい雰囲気を醸し出しています。
 一番人目を引くのが仏殿にある色彩の壁の塑像です。これは唐代の有名な彫刻家楊恵之の手によるものといわれています。あわせて3700体あります。壁の塑像は南壁と北壁をはじめとして、四つの部分に別かれています。この両側の塑像は連続した形を取って、すべて釈迦牟尼伝説の物語を描いています。塑像には庭園、滝、山水、橋、楼閣、宮殿、塔などの建築物やいろいろの菩薩、飛天などの人物があり、龍、鳳凰、獅子、麒麟、象、牛などの鳥獣もあります。整った配置と致密な構成で物語の流れが良くわかり、ひとつひとつ巧みに作られています。象にまたがり悠々と進んでいるもの、獅子や麒麟に乗って疾走しているもの、船に乗って湖を遊覧しているもの、河を歩いて渡っているもの、掛け軸を観賞しているもの、龍の背で飄然と空を飛んでいるもの、仏堂で説法しているものなど、どれでも、生き生きとした自然な美しい姿です。そして、人物の表情にはさまざまな人の異なった性格と心理状態が表現されています。これらの精緻な壁の塑像は中国の古代彫刻家の豊富な想像力と優れた彫刻技術を十分に表しています。水陸庵は陝西地方のお寺ではもっとも多く、もっとも完全な壁の塑像を保存するところです。
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西安観光スポット 乾陵 [西安観光スポット]

西安観光名所である乾陵は西安の西北約80km、陜西省乾県城北6kmの梁山にある。数かずの石像に守られ、唐3代高宗、李治(在位649~ 683)と女帝武則天(在位690~ 705)の合葬墓で、「唐十八陵」のうちで最も保存状態がよい。中国の歴史上で唯一、二人の皇帝が一緒に葬られている珍しい墓でもある。海抜1047mに位置して、広大な規模で、気迫がみなぎる。最も代表的な唐朝の陵墓である。   

合葬陵墓は梁山をそのまま陵墓をしたもので、梁山はなだらかな山で峰が三つあり、玄室のある峰が海抜1047メートで、その南のやや低いの二つの峰はいずれも小さいな峰火台があり、まるで女性の乳首のように見えるので「乳峰山」と呼ばれる。
            
参道には馬、高宗の葬儀に参列した外国の使節や、武官、文官、献上された動物をかたどった石像が120体ほど並んでいる。最も有名なのは唐高宗の功績を称えた石碑「七節碑」とその東側にある則天武后の石碑「無字碑」である。

乾陵の前方には、合計537段の石段と18の平台があり、81.68mの高低差がある。石段の先には、唐高宗陵墓碑まで続く参道がある。これが「司馬道」だ。現在道の両脇には、対になった石柱、ペガサス、ダチョウ、5対の石馬、10対の石像、2本の石碑がある。東には無字碑、西には述聖記碑があり、ほかに王賓像61体、石獅子1対もある。114点ある石刻の多くは巨石を彫りこんで造っている。陵の東南には17の陪葬墓がある。唐高宗陵墓碑は、高さ2m。もともとあった碑は破損しており、現在の碑は清乾隆年間に建てられたものだ。この碑の右前方には、郭沫若によって「唐高宗李治与則天皇后之墓」の12文字が書かれた碑がある。

乾陵の合葬墓は盗掘されたことがない。1966年から1971年、考古学者によって数度にわたって調査が行なわれ、墓の構造の堅牢さがわかった。墓道から墓室までは631m、幅3.9m、39層になっていて、すべて石版で仕切られている。各階の石版は鉄栓でとめ、そこへ鉄を流し込んで固定されている。こうした方法は文献の内容と一致しており、この墓が盗掘されにくいことが実証された。唐高宗と則天武後の地下宮殿には珍品が多いがまだ未発掘である。則天武后と唐高宗皇帝は唐代全盛期時代の人であるから、乾陵内部の副葬品は相当なものであるに違いない。その出土が大いに期待されている。

 乾陵周辺には、高官やその近親者永泰公主、章懐太子、懿徳太子など皇族の陪塚が17個あり、なかでも則天武后の怒りに触れ、17歳の若さで没した悲運の少女、4代中宗の第七女、永泰公主の墓には、色鮮やかな女官の壁画が描かれている。永泰公主の壁画は、奈良の松塚壁画のモデルといわれている。 陵墓の南東には乾陵博物館は永泰公主墓の側にあり、乾陵を中心とする墓群で発掘された文化財が多数展示されている。特に永泰公主の墓に描かれた壁画は当時の工芸技術の高さを物語る。

参考:中国観光専門サイト―西部旅情

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西安観光案内 半坡遺跡 [西安観光スポット]

西安観光地―半坡遺跡は,西安市東部の滻河と灞河の間に位置し,典型的な母系氏族公社村落の遺跡である。仰韶文化に属している。1953年に灞河火力発電所を建設する時に偶然に発見された現存の面積は約5万㎡で,居住区、製陶区と墓葬区の三つに分かれている。半坡博物館は,1958年に設立され,中国の最初の遺跡式博物館である。今は陳列室2つと遺跡ホールがある。

参考:中国観光専門サイト―西部旅情
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西安穴場 崋山 [西安観光スポット]

中国五岳の西岳「崋山」
崋山古称「西岳」で、中国著名な五岳のひとつで、西安の東へ120キロの華陰市に位置し、海抜は2154.9メートルです。昔から“奇険天下第一山”の称があります。華山は大きい花崗岩の体から構成し、その歴史は1.2億年前にまでさかのぼることができ 、 今の華山は東、西、南、北、中五峰があって、山上の気候のためよく変わって、“雲の華山”、“雨の華山”、“霧の華山”、“雪の華山”を形成して仙境の美感があります。

崋山主峰の落雁峰(南峰 海抜2160m)、蓮花峰(西峰 海抜2080m)、朝陽峰(東峰 海抜2100m)からなり、北は黄河を俯瞰し、南は秦嶺に連なります。『水経注』には、【遠くからこれを望めば花の形に見える】と記載されています。崋山には名勝旧跡が多く、山麓から絶頂までの至る所で、廟宇の遺構や天然の絶景を眺望することができます。雲を突いて架けられた長空桟道、絶壁に穿った全身巌、他に蒼龍嶺、南門、金鎖関、天梯、劈山救母石などがあります。崋山は昔より「一本道」と言われており、南北に通じる道は約10km続く一本の道しかないです。  
《史書》によって、秦始皇、漢武帝、武則天、唐の玄宗などの10人の数名の帝王もかつて華山まで(へ)大規模な祭祀活動を行ったことがあります。

参考:中国旅行専門サイト―西部旅情

西安より210キロ、天下一の険しい山である。
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西安観光 西安歴史文化財 鼓楼 [西安観光スポット]

鼓楼」は西安市西大街にあり、鐘楼から1kmも離れていない位置にあります。
明の洪武13年(1380年)に建造され、敷地面積1,999平方m、高さ33mの二重ひさしの滴水式建築です。
楼閣は長方形で、鐘楼と同じく、表から見れば三階建てで、内部は実は重縁式の二階建てであります。
表の軒に「闘」が飾ってあり、周りに回廊があり、内外とも金張りと色彩絵で飾り、非常に美しいです。

文字通り鐘が吊り上げられている「鐘楼」に対し、こちら「鼓楼」には「太鼓」が吊り上げられています。
城壁によって囲まれた都西安では、その城壁の防御によって城内の安寧が守られているわけですが、外の世界と通ずる城門は毎日開閉しなければなりません。
この開閉時刻を知らせたのが「鐘楼」と「鼓楼」なのです。
毎朝定刻になると鐘楼の鐘が鳴り響き門は解放されます。
そして夕刻になると今度は鼓楼の太鼓が鳴り響き、再び城門は閉じられる・・・というわけです。
鐘楼の「晨鐘」と同じように、「暮鼓」という言葉あります。

そのため、遠くまで見渡すことができ、また鐘や太鼓の音が遠くまで響きわたるよう、30mを超える高層の「楼」として建築されたわけですね。
鼓楼は陝西省重要文化財に指定され、二回にわたって大規模な修繕を行い、昔のように立派な面影を戻したのであります。
残念ながら今はもうそういう儀式もなくなっていますが、鐘楼周辺は華やかな繁華街で、ご覧のように鮮やかなライトアップもされていますので是非たずねてみてください。

また鐘楼がある交差点の北西角には、西安名物の「餃子宴」が楽しめるレストラン「徳発長」がありますのでこちらも是非ご賞味ください。

参考:中国旅行専門サイト―西部旅情
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西安観光 西安のシンボル 鐘楼 [西安観光スポット]

西安城壁内を東西南北に走る大通りのその交差点の真ん中にある正方形の木造建築がこの鐘楼です。ここを起点として東西南北に四つの大通りが伸び、それぞれ四つの城門に通じています。この四つの大通りが市内の交通網の基軸となっています。楼上からは市内の街並を一望できます。
かつて明の太祖朱元璋が、西から長安に向かう龍の夢を見ました。その龍は巨大なライバルの出現を意味していると占いに出たことから、龍を鎮めるために建てられたというのが、鐘楼の由来であります。
明の太祖朱元璋17年(1384年)に建てられました。外観は三階建てだが、内部は二階建てという構造で、釘を一本も使わず、一本木で建てられているのが特徴です。高さ36m、面積約1377平方メートルで、高さ8mの煉瓦造りの土台の上に立っています。吊り下げられている鐘(現在はレプリカです。)は重さ6トンを超えるといわれます。
楼の四方にアーチ型の通路があり、楼の中に階段もあります。天井には綺麗な花の模様が描かれています。四方の門の人物像にはそれぞれ面白い来歴があります。
中国の鐘楼の中でもっとも大きなもので、陝西省の重要な歴史遺産であります。 
この鐘楼の役割は?・・・というと、鐘楼から200mほど西の北門院通りにある「鼓楼」とあわせて説明しなければなりません。
では、今度は鼓楼をご紹介させていただきます。

参考:中国観光専門サイト―西部旅情
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西安の観光名所 碑林博物館 [西安観光スポット]

西安碑林博物館は西安城南門の東にある。碑林とは文字や図像を刻んだ多数の石碑の集合を意味する。西安碑林は昔の西安の孔子廟を基礎として1087年に建てられ、900余年の歴史をもつ。この博物館は石碑展示室、石刻展示室、臨時展示室の3つに分かれている。建築面積は約4000平方m、展示品は約3000点ある。西安碑林博物館は歴代の碑石、墓誌銘および石彫刻の作品を収蔵、研究、展示する博物館で、中国最大の石刻芸術の宝庫と称されている、王義之、欧陽詢、顔真卿、虞世南など、書道の大家の作品が立ち並んでいるほか、玄宗皇帝の書もある。

 碑林には古代中国と外国の友好往来の史実を記載している石碑もある。この中で、大秦景教流行中国碑は外国にも名高い石碑である。この碑を刻んだのは781年で、もとは長安大秦寺にあった。大秦とはローマ帝国を指す中国古代の呼称で、景教とはキリスト教の一会派である。この碑文に記載された景教の教義、教規などによって、古代中国におけるキリスト教の伝播状況や国際交流、友好往来の関係が明らかになっている。特に、碑の上にはシリア文字の職名が刻まれており、古代中国と古代のシリア、イラン、ローマ、アラビア半島諸国との友好往来を研究する資料としても価値が高く、この友好往来の史実を記載した資料は古今東西にこれしか存在していない。
 
唐広智三蔵碑の内容はインド僧不空三蔵が布教師として長安を訪れ、大興善寺で真言密教を伝授し、サンスクリット経典77部、127巻を唐語に訳経したことである。中国の宗恵果は不空三蔵に就いて密教を深く学び、また、これを日本の空海に伝授した。これが所謂三国三大法師の関係である。この碑文は楷書で、唐代の有名な書道家徐浩の筆である。

参考:中国観光専門サイト―西部旅情
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