世界遺産 夢幻の仙境―九寨溝 [世界遺産の旅]

九寨溝の湖は、男神が美しい磨き上げた宝鏡を、恋い慕っていた女神にプレゼントした。ところが、女神はうっかり宝鏡を落としてしまった。天空より落とした鏡が108つに砕けて透明な湖が出来たという伝説がある。こうして、この世に九寨溝という夢幻の仙境が現れたとされている。実際はこの地帯は1万年前まで氷山だった。地殻変動と氷河の動きにより渓谷が形成され、ヒマラヤの雪解け水が石灰質のカルスト地形の地下水に流れ込み、驚くほど透明度の高い湖が造成されたのである。

世界遺産である九寨溝は、四川省の北部、南坪県の岷山山脈の奥深いところに位置し、総面積は約6万ヘクタールにわたる。もともと、この地にはチベット族の村が9つあったことから、九寨溝という名がつけられた。
風景区は、樹正溝、則査窪溝という3つのY字型の峡谷により構成されおり、全ての長さを合わせると60キロほどになる。
手つかずの原生林の中に大小108の湖、泉、滝などが分布しており、その自然が織り成すエメラルドグリーンの世界はこれまでの中国に対するイメージとは全く異なり、カナダやスイスの景色を思い起こさせ、まさに秘境である。
湖の透明度の高さは、岩に含まれるカルシウムの影響で、その鏡のように反射する湖面はこの世のものとは思えない美しさだ。
地理的に、北は甘粛省、青海省に接しており、チベット族が多く住んでいるエリアだが、他にチャン族、漢族、回族なども居住している。


湖のなかで、色彩の美しさでいえば「五彩池」だろう。それは精巧な青い宝石を密林のなかにはめ込んだよう、湖水は透き通るように澄んでいる。湖のほとりに立つと、湖底6・6メートル深さの小石の形やスジまでハッキリと見えた。

「五花海」が九寨溝の絶景といわれているのは、湖底のトラバーチン堆積と色彩の豊かな藻類、沈殿する植物などが分布して、湖面に鮮やかな色彩を生み出しているからだ。赤、オレンジ、黄、緑、青、藍、紫など、湖はまるで多彩な宝石がはめ込まれてできたかのようだ。

九寨溝にある17の瀑布のうち、よく知られるのが「樹正」「諾日朗」「珍珠灘」の三大瀑布である。「樹正瀑布」は、「九寨溝の縮図」と呼ばれる「樹正溝」に位置する。上流の河がゆっくりと浅瀬をすぎて、崖の端の樹木に分けられ、無数の水の束をつくる。その瞬間、弓なりになった山崖から水流がほとばしり落ちていく。

「諾日朗瀑布」は、Y字型の渓谷の中心にある。その幅320メートル。これまでに中国で発見された最大幅のトラバーチン化瀑布である。「諾日朗」とはチベット語で「男神」を指し、「壮大、雄大」の意味である。ダイナミックなその勢いから、名づけられたものである。

「日則溝」に位置する「珍珠灘瀑布」は、九寨溝でもっとも美しい滝である。向かいの崖の上から瀑布を見下ろすと、激流は長さ約500メートル、幅200メートル近く。それは曲線を描いて深さ40メートルの谷底へと流れおち、なんとも優美、秀麗である。谷底の傍らから仰ぎ見ると、また別の趣がある。落水の音がとどろき、しぶきが飛び散り、はね上がり、まるで勢い盛んな「千軍万馬」のようである。

「則査窪溝」の源は、九寨溝最大の湖――「長海」である。標高3060メートル。ここの景観は九寨溝でもっとも壮麗で、「S」字型の湖は長さが約5キロ、最大幅が600メートル、群青色の湖の両側は、雲までそびえる雪峰である。それら雪峰の標高は、いずれも4000メートルの「雪線」(真夏でも雪が消えない高さの地点を連ねた線)以上であるため、山頂の積雪が年中溶けることはない。


九寨溝に行ってその魅力に圧倒されない人は誰もいないだろう。もしこの世界に“仙境”というものがあるならば、それは間違いなく九寨溝だと言う人もいる。
「黄山より帰りて山を見ず、九寨溝より帰りて水を見ず」という中国のことわざが物語るように、九寨溝は湖、泉、滝などの水が織り成す景色で有名である。

参考:中国旅行専門サイト―西部旅情
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西安観光案内 半坡遺跡 [西安観光スポット]

西安観光地―半坡遺跡は,西安市東部の滻河と灞河の間に位置し,典型的な母系氏族公社村落の遺跡である。仰韶文化に属している。1953年に灞河火力発電所を建設する時に偶然に発見された現存の面積は約5万㎡で,居住区、製陶区と墓葬区の三つに分かれている。半坡博物館は,1958年に設立され,中国の最初の遺跡式博物館である。今は陳列室2つと遺跡ホールがある。

参考:中国観光専門サイト―西部旅情
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西安穴場 崋山 [西安観光スポット]

中国五岳の西岳「崋山」
崋山古称「西岳」で、中国著名な五岳のひとつで、西安の東へ120キロの華陰市に位置し、海抜は2154.9メートルです。昔から“奇険天下第一山”の称があります。華山は大きい花崗岩の体から構成し、その歴史は1.2億年前にまでさかのぼることができ 、 今の華山は東、西、南、北、中五峰があって、山上の気候のためよく変わって、“雲の華山”、“雨の華山”、“霧の華山”、“雪の華山”を形成して仙境の美感があります。

崋山主峰の落雁峰(南峰 海抜2160m)、蓮花峰(西峰 海抜2080m)、朝陽峰(東峰 海抜2100m)からなり、北は黄河を俯瞰し、南は秦嶺に連なります。『水経注』には、【遠くからこれを望めば花の形に見える】と記載されています。崋山には名勝旧跡が多く、山麓から絶頂までの至る所で、廟宇の遺構や天然の絶景を眺望することができます。雲を突いて架けられた長空桟道、絶壁に穿った全身巌、他に蒼龍嶺、南門、金鎖関、天梯、劈山救母石などがあります。崋山は昔より「一本道」と言われており、南北に通じる道は約10km続く一本の道しかないです。  
《史書》によって、秦始皇、漢武帝、武則天、唐の玄宗などの10人の数名の帝王もかつて華山まで(へ)大規模な祭祀活動を行ったことがあります。

参考:中国旅行専門サイト―西部旅情

西安より210キロ、天下一の険しい山である。
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西安観光 西安歴史文化財 鼓楼 [西安観光スポット]

鼓楼」は西安市西大街にあり、鐘楼から1kmも離れていない位置にあります。
明の洪武13年(1380年)に建造され、敷地面積1,999平方m、高さ33mの二重ひさしの滴水式建築です。
楼閣は長方形で、鐘楼と同じく、表から見れば三階建てで、内部は実は重縁式の二階建てであります。
表の軒に「闘」が飾ってあり、周りに回廊があり、内外とも金張りと色彩絵で飾り、非常に美しいです。

文字通り鐘が吊り上げられている「鐘楼」に対し、こちら「鼓楼」には「太鼓」が吊り上げられています。
城壁によって囲まれた都西安では、その城壁の防御によって城内の安寧が守られているわけですが、外の世界と通ずる城門は毎日開閉しなければなりません。
この開閉時刻を知らせたのが「鐘楼」と「鼓楼」なのです。
毎朝定刻になると鐘楼の鐘が鳴り響き門は解放されます。
そして夕刻になると今度は鼓楼の太鼓が鳴り響き、再び城門は閉じられる・・・というわけです。
鐘楼の「晨鐘」と同じように、「暮鼓」という言葉あります。

そのため、遠くまで見渡すことができ、また鐘や太鼓の音が遠くまで響きわたるよう、30mを超える高層の「楼」として建築されたわけですね。
鼓楼は陝西省重要文化財に指定され、二回にわたって大規模な修繕を行い、昔のように立派な面影を戻したのであります。
残念ながら今はもうそういう儀式もなくなっていますが、鐘楼周辺は華やかな繁華街で、ご覧のように鮮やかなライトアップもされていますので是非たずねてみてください。

また鐘楼がある交差点の北西角には、西安名物の「餃子宴」が楽しめるレストラン「徳発長」がありますのでこちらも是非ご賞味ください。

参考:中国旅行専門サイト―西部旅情
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西安観光 西安のシンボル 鐘楼 [西安観光スポット]

西安城壁内を東西南北に走る大通りのその交差点の真ん中にある正方形の木造建築がこの鐘楼です。ここを起点として東西南北に四つの大通りが伸び、それぞれ四つの城門に通じています。この四つの大通りが市内の交通網の基軸となっています。楼上からは市内の街並を一望できます。
かつて明の太祖朱元璋が、西から長安に向かう龍の夢を見ました。その龍は巨大なライバルの出現を意味していると占いに出たことから、龍を鎮めるために建てられたというのが、鐘楼の由来であります。
明の太祖朱元璋17年(1384年)に建てられました。外観は三階建てだが、内部は二階建てという構造で、釘を一本も使わず、一本木で建てられているのが特徴です。高さ36m、面積約1377平方メートルで、高さ8mの煉瓦造りの土台の上に立っています。吊り下げられている鐘(現在はレプリカです。)は重さ6トンを超えるといわれます。
楼の四方にアーチ型の通路があり、楼の中に階段もあります。天井には綺麗な花の模様が描かれています。四方の門の人物像にはそれぞれ面白い来歴があります。
中国の鐘楼の中でもっとも大きなもので、陝西省の重要な歴史遺産であります。 
この鐘楼の役割は?・・・というと、鐘楼から200mほど西の北門院通りにある「鼓楼」とあわせて説明しなければなりません。
では、今度は鼓楼をご紹介させていただきます。

参考:中国観光専門サイト―西部旅情
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西安の観光名所 碑林博物館 [西安観光スポット]

西安碑林博物館は西安城南門の東にある。碑林とは文字や図像を刻んだ多数の石碑の集合を意味する。西安碑林は昔の西安の孔子廟を基礎として1087年に建てられ、900余年の歴史をもつ。この博物館は石碑展示室、石刻展示室、臨時展示室の3つに分かれている。建築面積は約4000平方m、展示品は約3000点ある。西安碑林博物館は歴代の碑石、墓誌銘および石彫刻の作品を収蔵、研究、展示する博物館で、中国最大の石刻芸術の宝庫と称されている、王義之、欧陽詢、顔真卿、虞世南など、書道の大家の作品が立ち並んでいるほか、玄宗皇帝の書もある。

 碑林には古代中国と外国の友好往来の史実を記載している石碑もある。この中で、大秦景教流行中国碑は外国にも名高い石碑である。この碑を刻んだのは781年で、もとは長安大秦寺にあった。大秦とはローマ帝国を指す中国古代の呼称で、景教とはキリスト教の一会派である。この碑文に記載された景教の教義、教規などによって、古代中国におけるキリスト教の伝播状況や国際交流、友好往来の関係が明らかになっている。特に、碑の上にはシリア文字の職名が刻まれており、古代中国と古代のシリア、イラン、ローマ、アラビア半島諸国との友好往来を研究する資料としても価値が高く、この友好往来の史実を記載した資料は古今東西にこれしか存在していない。
 
唐広智三蔵碑の内容はインド僧不空三蔵が布教師として長安を訪れ、大興善寺で真言密教を伝授し、サンスクリット経典77部、127巻を唐語に訳経したことである。中国の宗恵果は不空三蔵に就いて密教を深く学び、また、これを日本の空海に伝授した。これが所謂三国三大法師の関係である。この碑文は楷書で、唐代の有名な書道家徐浩の筆である。

参考:中国観光専門サイト―西部旅情
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西安の観光スポット 大雁塔 [西安観光スポット]

大雁塔 

西安観光の歴史名所である大雁塔は大慈恩寺にある。慈恩寺は648年、唐の第三代皇帝高宗李治が亡くなった母、文徳皇后の慈恩を追慕して建立した寺で、高宗の皇太子時代に立てられた。当時の慈恩寺は僧房1897室、僧侶300人が集まっていた。しかし、唐代末期、戦乱のため焼き払われ、今の大きさは昔の十分の一に過ぎない。

現在の境内にある当時の建物は大雁塔だけであるが、塔の前方には明代と清代の建物が残っている。その講堂の中に金色の阿弥陀仏と昔の仏座が展示されている。講堂前の大雄殿には釈迦如来の三身仏と十八羅漢がある。これらの仏像は明代のもので、後年、鍍金したり、塗装して現在に至っている。塔の東南に明、清代の慈恩寺歴代住職の舎利塔が八基ある。庭園には鐘楼と鼓楼があり、その中にそれぞれ大きな鐘と太鼓が掛けられている。

シルクロードを通って西域128ヶ国を歴訪し、インドでの遊学を終えて、多くの経典と仏像を長安に持ち帰った唐の高僧玄奘法師は慈恩寺をすばらしい寺として、この寺の境内に塔を建立して、仏像と経典を保存したいということを高宗に願いした。これは652年のことであった。この塔に使用された材料は煉瓦、石灰、土、餅米である。塔が一日でも早く出来あがるように、玄奘は毎日、朝早くから夜遅くまで煉瓦などの材料を籠で背負って運搬したと伝えられている。塔が竣功してから、玄奘の持ち返った仏像などがその中に安置された。そして、玄奘は慈恩寺を翻訳経院とし、経典の翻訳を約11年間に亙って続けた。

大雁塔は則天武后の長安年間(701-704)に大改造を行って十層になったが、その後の戦乱などで七層から上が崩壊してしまった。

 現在の塔は煉瓦造りの七層で、高さ64m、中に螺旋階段があり、階段は碑と漸く擦れ違うことができるほどの幅であるが、最上階まで登ることがでる。また、各層には正確に東西南北の四方に窓が開いている。

 塔の南入口の左右の龕には唐第二代皇帝太宗の「大塔三蔵聖教序」の石碑と唐第三代皇帝高宗の「大塔三蔵聖教序記」の石碑がある。碑文の内容は玄奘法師の苦労を称えたものである。

 大雁塔はすでに1300年の歴史があり、その間、震度7以上の地震に二度見舞われているが、昔日の雄姿のままに重厚な姿を見せている。


参考:中国旅行専門サイト―西部旅情

西安観光名所 陝西省歴史博物館 [西安観光スポット]

1991年に開館した、中国文化の源である西安を中心とした陝西省各地の出土品を収蔵している歴史博物館。中国全土の中でも最大規模を誇る博物館のひとつ。省クラスの総合歴史博物館で、国のAAAAクラスの観光スポットである。大雁塔の北西にあり、面積は約60000平方メートル、参観ルートの長さは1500メートルにも及ぶ。唐代の伝統的な宮殿建築様式で造られており、屋根には瑠璃瓦が使用されている。 「真中は殿堂、四隅は崇楼」の唐風の建築物群で、民族の伝統、地方の特色、時代の精神を一体に集めたものと言える。歴史的遺産の他、美しいその概観も一見の価値がある。収蔵されている作品も第一級のものばかりで、その数は11万3000点にも及ぶというが、そのうち、展示されているのは3000点余りである。特に見逃せないのは、先史時代の彩陶瓶、殷・周時代の青銅器、唐代の金器や銀器、唐代の壁画や唐三彩など。「古都の真珠、華夏の宝庫」と賞賛される文化財が揃っている。

 展示室は年代順に3つに分かれている。先史時代から周、秦代までの第1展示室は青銅器が見もの。第2展示室は漢から魏晋南北朝。第3展示室は隋・唐から清代までで、彩り豊かな唐三彩は必見。また地下には各地の陵墓から発見された唐代の巨大な壁画が納められている。特に有名なのは永泰公主墓や章懐太子墓などから発見されたもの。色鮮やかな色彩で描かれ、当時の生活が偲ばれる。展示物はもともと碑林博物館に納められていたものが多い。この歴史博物館ができたことにより、碑林博物館は石碑などの石刻中心の展示となっている。


館内には37万点余りの文物が収蔵されており、大昔から1840毎のアヘン戦争に至るまでの100条万年の人類の社会生活とかかわりのあるさまざまな器物が含まれており、数量も多く、種類がよくそろっているばかりでなく、きわめて高い品位と価値もあり、そのなかの商・周の時代の青銅器は精緻で美しく、歴代の陶製人形も多彩で、漠・唐の時代の金銀製品は世に知られるものであり、唐墓の壁画もこの上なくすばらしいものである。展示面積は1100平方メートル、基本的展観は「陝西古代史展」で、中華民族の壮大かつ精緻な文明の成果を示めすものである。


参考:中国観光専門サイト―西部旅情

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西安観光名所 世界遺産 兵馬俑博物館 [世界遺産の旅]

世界遺産、世界第八大奇跡である西安兵馬俑博物館を皆様に紹介しております。

 秦始皇兵馬俑博物館は西安の臨潼県政府のある町の東まで位置して、驪山を南に臨んで、渭の水を北に臨んで、気勢は雄壮偉大で、全国の重点の文化財保護の部門です。

  秦始皇兵馬俑博物館、兵馬俑が前の場所を陥れる上の遺跡性博物館を創立するのです。1979年10月1日にオープンしてから、国家の改革開放の春風を入浴して、通って苦難に創業して、光り輝く業績を得て、世界的に有名な大規模の遺跡性博物館になります。兵馬俑はすでに“世界の第8の大きい奇跡”ですと誉められて、“20世紀の考古の史の上の偉大な発見の1つ”。1987年12月、国連教育科学文化機関はすでに秦の始皇帝陵(兵馬俑を含んで陥れます)を“世界文化遺産の名簿”に入れました。それは中国人民は、全体の人類の1部の貴重な文化の財産なのなだけではありません。

  兵馬俑は1974年3月に発見したので、現地の農民が一面の砂利と石が、墓の墓の連なる荒野を積み上げる上に井戸を掘る時偶然いくつか陶製の人形の不完全な切れを発見しました。後考古の従事する人の1年余りのが心をこめて探査して試みますを通じて(通って)掘って、発見するのは規模の雄壮偉大な大規模の兵馬俑が(つまり1番の土偶が陥れます)を陥れるので、中は真人、真馬の大きさの似ている陶製の人形、陶馬の約6000件を埋蔵していますと。このように巨大な発見、中国でと世界で沸き立たせて驚かせることを引き起こしました。

 兵馬俑は芸術史の上でとても高い価値を持ちます。兵馬俑の作成、現実で生活して基礎のために創作するので、芸術的手法はきめ細かくて、明快です。陶製の人形の身なり、表情と態度はすべて異なっています。ただ式を出してたくさんの種があって、手振りはそれぞれ異なって、顔の表情は更に表情と態度はそれぞれ異なっています。それらの身なり、表情と手振りから官かのそれとも兵かを判断することができて、歩兵なのはまだ騎兵です。ここにひげの幾たびの戦火をくぐる古い兵が成長したがあって、初めて戦場に行く青年がもいます。身は1.96メートルの将軍の土偶に達して、雄大に直立して、精神を集中して考えて、1種の剛毅で威力がある表情が表れます。その武士の土偶、頭はかすかに上げて、2つは前線を直視して、激情が高揚してまた何分(か)の子供っぽさを持ちますかに見えます。その着はシャベルの甲をはおって、右手は長いことをとって与えて、左手は車の武士を押して、姿勢の動作は彼が守る車の士の土偶なことを明らかに示します。


参考:中国旅行専門サイト―西部旅情
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西安観光名所 華清池  [西安観光スポット]

西安観光名所のひとつである「華清池」は、西安の北東約30kmの、標高1256mの驪山(りざん)の麓に抱かれるようにあります。この場所は、古く3千年前の西周時代から驪山を源泉とする温泉地でした。

秦の始皇帝を始め歴代皇帝の保養地として利用されてきましたが、やっぱりここを語るとき忘れてならないのは唐代の玄宗皇帝と楊貴妃にまつわるお話でしょう。

玄宗皇帝は747年、この温泉地に宮殿式建築の豪奢な湯殿を建て「華清宮」と名付けました。そしてここを舞台に絶世の美女といわれる楊貴妃との享楽生活にふけったのです。

楊貴妃は16歳の時、美人(官名)に選ばれて宮殿に入り、玄宗の子(寿王)の妃となりましたが、740年10月、玄宗皇帝が華清宮への行幸中に召し出されました。

美人で聡明な楊貴妃は玄宗皇帝の寵愛を一身に集め、745年に皇后に次ぐ高位「貴妃」となったのです。(本名は「楊玉環」といいます)以来、玄宗皇帝は毎年秋から春にかけ、ここ華清宮で楊貴妃とともに過ごし、享楽の毎日を送りました。

華清宮には、玄宗皇帝専用の湯殿「蓮花湯」と楊貴妃専用の湯殿「海棠湯」が造られました。蓮花湯は大理石で造られ白い玉石で魚や龍、蓮の花などの彫刻で飾られていたといわれます。特に蓮の花は、まるでお湯の中に芙蓉の花が咲いているように見えるくらい見事なものだった伝えられています。

華清池への入り口を抜けすぐ左手にある建物は「飛霜殿」といいます。ここは玄宗皇帝と楊貴妃が泊まった建物で、源泉を引き込んであったため(今様に言うなら「床暖房」ってとこでしょうか?)、冬でも暖かく屋根には霜も付かないということから「飛霜殿」と呼ばれます。

玄宗皇帝と楊貴妃の華清宮における愛欲の日々は、唐代の詩人白楽天によって長編叙事詩「長恨歌」に詠まれています。

実はここ華清宮は、現代中国史においても重要な政変の舞台となっています。「楊虎城」率いる西北軍と「張学良」率いる東北軍による共産党「討伐」が進まないことに業を煮やした蒋介石は、1936年12月、この二人の将軍に檄を飛ばすため西安に来ました。その時蒋介石はここ華清宮に泊まりこんでいました。しかし、張学良の部下の多くは共産軍との内戦停止と一致抗日を支持していました。そして抗日運動を抑圧し対共作戦にだけ夢中になっていた蒋介石に対し、ついに12月12日朝5時反乱は起きました。(いわゆる「西安事件」です。)

突然の銃声で目を覚ました蒋介石は着の身着のまま逃走しましたが、山腹の岩陰に隠れているところを張学良の護衛兵に捕らえ、西安市の西京招待所に幽閉されました。

この情報は張学良によって延安にいる毛沢東に伝えられると、毛沢東は周恩来を西安に派遣しました。周恩来は蒋介石と交渉を重ねた結果「抗日民族統一戦線」結成となって、国共合作が実現しました。

参考:中国旅行専門サイト―西部旅情
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